川越市スキー連盟の歴史

戦後間もない昭和25年、同じ道を求めて集まった人たちによって川越スキークラブ(現在の川越市スキー連盟)は発足しました。
当時は用具もなく軍靴に金具を付けて暗くなるまでスキーを滑ったと聞いています。
発足後直ぐに第1回の市民体育祭・市民スキー講習会を妙高高原で開催し、2年後の昭和27年には埼玉県五市対抗に参加、そして川越市体育協会に加盟しました。
市民体育祭・市民スキー講習会は、昭和27年まで妙高高原、その後、丸池、木戸池、発哺、昭和32年からは蔵王で開催されました。
昭和31年度には連盟が組織化され、基礎スキーに力を注ぎ、安全で楽しいスキーを目指して指導者の育成に取り組むこととなります。
やがて講習会中心の活動の中から、競技スキーに参加する者が現れ、県民体育大会等に参加し、現在でも多数の選手を県体、国体等に派遣しています。
昭和56年より草津スキー場においてジュニアスキー教室を実施し、毎年多くの児童生徒が参加し、スキーの普及に力を入れているところです。
現在、川越市スキー連盟は、10のスキークラブが所属し、総務部、競技部、教育部の各専門部会を持ち、27名の理事役員を各部会に適正に配置し、事業を推進しています。
川越市のスポーツの一端を担う団体として、所属している10クラブの指導者、競技者等の育成、技術の向上を図り、スキーを通じ広くスポーツの振興に努めています。

【歴代会長】
神山 義男 昭和25年 ~26年
関口 正雄 昭和27年 ~30年
関口 正鉱 昭和31年 ~平成元年
小田 伍良 平成 2年 ~ 5年
関口 鉱三郎 平成 6年 ~ 9年
小高 清二 平成10年 ~13年
小笠原 健一 平成14年 ~25年
井部 善幸 平成26年 ~27年
牛久保 努 平成28年

 

昭和25年 第一回市民スキー講習会
妙高高原スキー場(妙高池の平スキー場)
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快晴の空をバックに妙高山の雄姿が美しい。

 

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川越市スキー連盟の歴史を貴重な市民スキーの思い出でふり返ります。
当時のスキーファッションに注目。
1950年代から60年代は今のようなスキーウエアでは無く、日常着であるセーターやパンツを代用し、ヤッケなどの上着を被って滑るのが当たり前でした。
ダブダブのセーターでは前傾姿勢が取れず滑りにくいので、身体にフィットしたスキー用のセーターがゴールドウインなどの衣料メーカーから発売されるようになりました。ちなみにゴールドウインの前身は富山のメリヤス製造所です。
当時のスキー靴は多くが革性のヒモ式で、ビンディングはかかとをワイヤーで固定するカンダハーという名前の方式が主流でした。道具が無く軍靴に金具をつけたりして滑るのも普通だったようです。
現在のようなプラスチック製のブーツやステップイン式のビンディングが登場し一般化するのは70年代に入ってからです。

 

 

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昭和26年 第2回市民スキー講習会
妙高高原スキー場(妙高池の平スキー場)
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当時スキー場に行く手段は国鉄の利用であり、もちろん蒸気機関車でした。
10時間以上もかかるため夜行列車で、通路に新聞紙を敷いて寝る「4等寝台車」が当たり前の時代でした。碓氷峠の長いトンネルでは、石炭の煙が車内に入って来てずいぶんと息苦しい思いをしたそうです。

 

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今に比べればスキー場に行くのもたいへんな時代ですが、それでも皆さんスキーが大好きだったのです。いい笑顔です。

 

昭和27年 第3回スキー講習会
妙高高原スキー場(妙高池の平スキー場)
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この年に川越スキークラブが川越市体育協会に加盟。またこの年に埼玉県五市対抗競技に参加し、その後の競技スキーの発展につながります。
ファッションを見ると当時らしさがうかがえます。

 

昭和29年 第5回市民スキー講習会
志賀高原丸池スキー場
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3年間続いた妙高での市民スキー教室は、昭和28年から会場を志賀高原丸池スキー場に移して行われるようになりました。
当時志賀高原スキー場のメインゲレンデは現在では最も下部にある丸池でした。丸池スキー場には昭和22年に日本で第一号のスキーリフトが進駐軍により設置されていましたが、その後昭和27年に進駐軍による接収が解除され、長野電鉄が払い下げを受けて一般に開放されました。
川越から志賀高原に行くには夜行列車に乗り湯田中駅で降り、丸池まで上がるという交通手段でしたが、まだ馬ソリも運航されていた時代でした。丸池まで歩いて上がることもあったそうです。帰りは志賀高原から麓の渋温泉まで滑って降りることが出来たそうです。

 

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当時のリフト回数券。5回で100円とは時代を感じます。

 

 

昭和29年 市民体育祭
昭和29年から川越市主催の市民体育祭の種目別対抗リレーに参加。川越市の各連盟が各々の競技ユニフォームを着るという参加ルールがあり、スキー連盟はヤッケに帽子、スキーを担ぎ、ストックを持って参加しました。
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昭和30年 第6回市民スキー講習会
志賀高原丸池スキー場
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市民スキー講習会と同時開催された市民体育祭に出場された関口氏と小田氏。
川越の競技スキーの先駆者です。

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昭和33年 第9回市民スキー講習会
山形蔵王スキー場
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昭和33年から市民スキーは、会場を山形蔵王スキー場に場所を移し行われるようになりました。
参加者は初めて見る蔵王の樹氷に感激、またスケールの大きさに感動し、その魅力の虜となりました。
以後、川越市民スキー講習会は会場を山形蔵王とし、その後長く続きました。

 

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蔵王での市民スキーには、大勢の川越の若者が集まりました。
奥には昔の蔵王ロープウェイが映っています。

 

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ゲレンデ最上部のドッコ沼にて。

 

 

昭和35年 第11回市民スキー講習会
山形蔵王スキー場
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昭和31年(1956年)イタリアで開催された第7回冬季オリンピックで、トニーザイラーが三冠王に輝きました。当時トニーザイラーといえばスキーヤーにとって英雄であり、皆のヒーローでした。
そのトニーザイラーに川越市民スキーの一行は山形蔵王で偶然にも遭遇することが出来ました。
華麗なザイラーの滑りに皆が魅了されたそうです。(関口敏夫氏撮影)

 

 

昭和47年 第23回市民スキー講習会
山形蔵王スキー場
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スキー連盟の一行。おそろいのウエアの胸には川越の紅いワッペンが。
この年に札幌オリンピックが開催され、日の丸飛行隊(スキー・ジャンプ)の活躍と共にウインタースポーツに関心が集まり、スキー人口は飛躍的に増えることになりました。
川越市民スキーの募集定員は120名でしたが半日で定員一杯になり、キャンセル待ちが出るほど盛況だったそうです。

 

 

昭和53年 ファミリースキー
万座温泉スキー場
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昭和50年代に入ると連盟の上野洋之進氏、松岡靖浩氏が中心となり、川越市民スキーとは別に家族を対象としたファミリースキーが開催されるようになりました。この川越市ファミリースキーの開催が、その後の川越市教育委員会主催、川越市スキー連盟主管の川越市ジュニアスキーの発足に発展することになります。

 

 

スキー映画会
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70年代、80年代にはスキーブームを受け、「市民スキー映画の夕べ」というスキー映画の上映会も数多く行われました。当時はスキー好きの若者で大盛況だったようです。
この写真は昭和61年に行われた最後のスキー映画上映会の貴重なチケットです。チケットには’87シーズンのスキー行事の日程が記載されています。